『岡田有希子』の基本情報

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岡田有希子のデビューについて

岡田有希子は、中学3年でアイドルになるという計画を立て『スター誕生!』に出場し見事予選を突破、しかし親の猛反対に遭って本来進出するべき決戦大会に出場することができませんでした。
この抗議のため岡田有希子は食事もとらず部屋に閉じこもり、困り果てた両親はある交換条件を提示します。
それは、

学内テストで学年1位
模擬試験で学内5位
地元で最高レベルの進学校である向陽高校への合格

と、かなり無謀なものでした。
しかし岡田有希子は以上の条件を全てクリアし、1大会遅れで特別に出場した『スター誕生!』の決戦大会で見事合格するのでした。
ちなみにこの『スター誕生!』決戦大会は最後の決戦大会だったので、タイミングが少しでもズレていたら岡田有希子はアイドルとしてデビューできなかったかもしれません。

新人賞を総なめ

所属事務所も決まって上京することとなった岡田有希子は、結局苦労して入った地元の高校をやめ堀越学園に編入し、芸能人としての道を歩みだします。(高校の編入については、そもそも親が提示した交換条件に矛盾があった)
翌年の1984年には、同じ事務所の松田聖子の後継として大々的に売り出され、年末には各音楽祭の最優秀新人賞を総なめにすることとなりました。
対象曲となった『-Dreaming Girl- 恋、はじめまして』(一部音楽祭はが『リトル プリンセス』対象曲)は、各音楽祭の新人賞ノミネートの際と受賞の際に2回歌うので、テレビで何度歌っているシーンが放送されたか分かりません。
よく昔のアイドルを紹介する際に『新人賞を総なめ』と紹介されるケースがありますが、実際に音楽祭の最優秀新人賞を総なめにした女性アイドルは岡田有希子のみです。
『新人賞を総なめ』と呼ばれるほとんどの人は、最優秀新人賞のノミネートに当たる新人賞をいくつか獲得しただけか、場合によっては総なめという言葉に全く該当していなかったりします。

ただ、この年は岡田有希子と同日デビューの菊池桃子が賞レースを辞退あるいは出演拒否(実質的に最優秀新人賞の授賞拒否)をしているので、もし菊池桃子が賞レースに参加していたらどんな結果になっていたのかと、アイドルファンの中では未だに議論の対象になっているそうです。

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念願のヒット曲『くちびるNetwork』

デビュー以降の岡田有希子は、オリコンTOP10圏内には入るのですが大ヒットには至らないという状況が長く続きます。
しかし8曲目のシングル『くちびるNetwork』(1986年1月29日発売)で、ついにオリコン1位を獲得し世間的にも広く知られる曲となりました。

そして・・・

『くちびるNetwork』がヒットした1986年2月以降、岡田有希子は『ザ・ベストテン』や『ザ・トップテン』などの出演が続き、忙しい日々を過ごします。
そんな矢先の1986年4月8日に、岡田有希子は自ら命を絶つのです・・・

岡田有希子と私

私が個別のアイドルに対してファンになったのは岡田有希子が初めてです。
しかしファンになって間もなく岡田有希子は自死という形で亡くなり、その後しばらくして、次いで好きだった中森明菜のファンになってみたりするものの、その中森明菜も自殺未遂騒動を起こします。
こういった度重なる不幸から、私は1人のアイドルに対し熱中することはなくなり、今でいう『DD(誰でもOK)』としてアイドル界を見つめるようになりました。
そしてこのことが、総勢250人を超えるアイドルの記事を書く当ブログに繋がっていくのです。

なぜ岡田有希子は自ら死を選んだのか・・・

岡田有希子の死について考えることは私にとってとても辛いことで、できれば深く考えずに生きていきたいのですが、岡田有希子のことを書く上でこのことは避けて通れない話ですので、しっかりと考えていきたいと思います。

死の原因

峰岸徹との関係
岡田有希子の死の原因は、ドラマで共演した峰岸徹にフラれたことなのではないかと噂されており、このことは周囲の証言からも確認できます。
しかし峰岸徹が岡田有希子を弄んだという話は聞こえてこず、自身と大きな年齢差のあった岡田有希子に対し、峰岸徹は大人の対応をして距離を置いたに過ぎません。
少なくとも、峰岸徹に岡田有希子の死に対して責任があるとは言えないでしょう。

遠藤康子の死
実は、岡田有希子が亡くなる9日前の1986年3月30日に、遠藤康子という17才のアイドルが自ら命を絶っています。
時期を考えれば、この遠藤康子の死が岡田有希子が自死という道を選ぶことに影響が全くなかったとは考えづらく、何らかの影響は与えているものと思われます。

その他にも、噂レベルのものを含め岡田有希子の死の原因は様々の事柄が挙げられていますが、どれも自ら命を断つ動機としてはイマイチに感じます。

当時の状況

岡田有希子が亡くなった当時の状況について、時系列を追って考えてみましょう。

1986年3月3日、高校(堀越学園)を卒業
4月4日、芸能界デビュー時から居候していた事務所社長宅から引っ越し、1人暮らしを始める
4月5日、コンサート(渋谷公会堂)
4月6日、コンサート(名古屋市民会館)
4月7日、オフ日
4月8日朝、ガスとリストカットによる自殺未遂、事務所スタッフに保護される
4月8日12時15分、所属事務所のビルから飛び降り

岡田有希子は亡くなる直前に一人暮らしを始めていますが、1986年4月6日に名古屋でコンサートがあるので、自殺未遂を行う前日の4月7日は、1人暮らしの生活をまともに始める最初の日に近い状況でした。
そのため、高校を卒業し一人暮らしを始めた不安や寂しさが死のきっかけになっている可能背も考えられます。

しかし上記の通り、岡田有希子は自宅での自殺未遂後、スタッフに連れられ所属事務所で一旦保護されています。
そこからスタッフの一瞬の隙を盗んでビルの屋上まで駆け上がり、飛び降りてしまったわけです。
私は経験がないのでよくは分かりませんが、自死に失敗して周囲の人に助けられたら、一旦落ち着いて、すぐさま再び同じ行動をするなんてあり得ないのではないでしょうか?
少なくとも保護された場所から飛び降りるようなことは、一般的にはなかなか考えづらい行動です。
このように岡田有希子の自死は突発的なものではなく、むしろ死に対して強い意志を感じ、1人暮らしの寂しさという理由だけで死を選んだという説は到底納得できるものではありません。

結局、当時の状況を振り返っても、岡田有希子が極端な選択をするような原因は読み取れないのです。

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岡田有希子の性格

岡田有希子の性格は、芸能界デビューのきっかけ『スター誕生!』決戦大会への出場を親に反対された際、部屋に閉じこもってハンスト活動したことからも分かるとおり、かなりの頑固ものである様子が窺えます。
また、アイドルデビューの計画を考えてその通りに遂行しようとしたことから推測するに、決めたことを完ぺきにこなそうとする完全主義者であったとも考えられ、このことは成績が抜群に優秀であったことからも読み取れます。

しかし芸能界デビュー後の岡田有希子は、あまりの忙しさに自分で考えるようなことが何もできず、大きなストレスを感じていたのではないでしょうか?
しかも、この時期に岡田有希子が書く小説の連載が始まるという、スケジュール的に絶対不可能な企画も持ち上がっていたそうです。
通常、こういった企画はゴーストライターが書くのかもしれませんが、頭脳明晰で読書家な岡田有希子は小説家になることも1つの目標にしており、自分自身で小説を書きたかったと思われます。
ただ、人気絶頂期であった岡田有希子が小説を書く時間がないことは誰の目から見ても明らかでした。
当時の岡田有希子は、こういった諸々のことに耐えられなくなってしまっていた可能性があるのです。

しかし、だからと言って死を選ぶという話には繋がらないでしょう。

岡田有希子の死についての個人的結論

結論から言えば、私は当時の岡田有希子に死に至るような原因はないと思っています。

では、実際に岡田有希子が亡くなっている現実をどう受け止めるかについてですが、それは当時の岡田有希子が忙しすぎたということに集約されると思います。
当時のアイドルの忙しさは常軌を逸していて、舞台袖で10分でいいので寝かせてくれと嘆願するアイドルを見たという証言もありますし、絶頂期のピンク・レディーなどは、私の計算ではどんなに多く見積もっても1日マイナス46時間しか寝ていない計算になります。
これだけ忙しく寝不足の状態が続くと、正常な判断ができないレベルのうつ状態になっていてもおかしくありません。

岡田有希子の場合は、亡くなる半年程前の1985年11月5日から1986年1月28日まで、初主演したドラマ『禁じられたマリコ 』に出演していています。
岡田有希子にとって拘束時間が長い主演ドラマの撮影は初めてのことで、心身ともに相当の疲労を蓄積したものと思われます。
そしてそのドラマが終わってすぐに『くちびるNetwork』がヒットし歌番組に立て続けに出演。
この『くちびるNetwork』を歌っている動画は山のようにあり、おそらくテレビで30回以上歌唱していると思われす。
ランキング形式の『ザ・ベストテン』や『ザ・トップテン』はもちろん、歌のコーナーがあった各種バラエティ番組から地方番組まで、正直そんな番組にまで出ないでいいよと思うような番組にまで出演し、当時の岡田有希子は『くちびるNetwork』を歌いまくる状況でした。
これはいくら何でも働かせすぎであり、更に亡くなった2日後には新しいドラマの撮影が始まる予定だったと言うのですから、当時の岡田有希子は現実から逃げ出したくなるような忙しい日々を過ごしていたわけです。
この忙しすぎる状況が、岡田有希子が自死という道を選ぶ大きな要因になっている可能性は極めて高いと思われます。

そして、そこに追いやったのは所属事務所と言えるでしょう。

岡田有希子は1984年の音楽賞を総なめにしているわけですが、正直、当時の岡田有希子にそこまで圧倒的な実力があったとも思えません。
多数の音楽祭で新人賞にノミネートすることや、いくつかの音楽祭で最優秀新人賞を獲得するのなら分かりますが、今までの女性アイドルが誰も成しえなかった音楽祭における最優秀新人賞の総なめは、さすがに実績とのギャップがありすぎると言えます。
岡田有希子の実力を否定するわけではないですが、大きなヒット曲もない状態で最優秀新人賞をあそこまで総なめにするのは明らかにおかしいわけで、そこには所属事務所の大プッシュがあったことは間違いないのです。

こういった所属事務所の過剰な期待が、岡田有希子にとって大きなプレッシャーになっていた可能性も捨てきれません。
そこに現実的な寝不足などの問題や本人の性格を併せ考えると、当時の岡田有希子は、本来なら気に留めることではないような出来事すらも、極端な選択のトリガーとなりかねない状況に陥っていたと考えられます。
そのため、他人から見たら死ぬような原因がないように見えるわけです。

自ら命を断つということは、動機やきっかけにばかり注目してしまいがちですが、岡田有希子の場合は動機やきっかけが大きな原因ではなく、そこに至るまでの状況のほうが大きな原因になっているのではないかと私は思っています。

岡田有希子と所属事務所の関係性

死の直前の岡田有希子は、所属事務所に対して相当の不信感をもっていた可能性が高いと思われます。
事務所のビルから飛び降りたという事実もそうですが、自殺未遂後に1度保護されて、すぐにビルから飛び降りるという現象は、事務所の人間を自分の味方と見なしていなかった証拠なのではないでしょうか?
もし事務所のスタッフに対して悪い感情を持っていたのならば、自殺未遂の後で保護された際に、手を差し伸べられという感情ではなく、再び悪夢のような生活に戻されるのではないかと感じた可能性が高く、すぐさまビルから飛び降りたことにも納得がいきます。

岡田有希子の死とは、峰岸徹との関係やその他の噂されている要因よりも、過熱したアイドルブームの中で、所属事務所が1人のアイドルを消費しつくしてしまった結果生まれた悲劇の出来事だったのではないかと思います。
そもそも18歳の岡田有希子が24歳も年上の峰岸徹に好意を寄せたこと自体、精神をすり減らした岡田有希子の心の叫びだったのかもしれません。

死後の岡田有希子に対する評価

近年、岡田有希子のことをメディアで扱う際に、岡田有希子の活動を過度に称賛する傾向が見てとれますが、こういった岡田有希子の扱いについて、私は若干の違和感を感じています。
やはり“命を粗末にしてはならない”という根本を忘れてはいけないと思うのです。
ですので私は、唯一ファンになったアイドルといってもいいような存在の岡田有希子であっても、称賛するようなことはありません。

岡田有希子の死後、『ユッコシンドローム』と呼ばれる後追いの自死が多発しました。
当然、こういった人たちはそもそも人生に大きな問題を抱えていたのでしょうが、しかし岡田有希子が極端な選択をしなければ死なずに済んだ可能性も多分にあるわけで、やはり岡田有希子は自ら命を断つべきではなかったと思います。

そして何よりも、岡田有希子には生きていてほしかった!

自分は岡田有希子が死んで称賛されるよりも、とにかく生きていてほしかったのです。
この思いは、おそらく私が生きている限り頭に残り続けることでしょう・・・

岡田有希子がもし生きていたら

岡田有希子が亡くなってから30年以上の時が過ぎ、『もし岡田有希子が生きていたらどうなっていたのか?』などと考えることもあります。
結果的に最後のシングルとなった『くちびるNetwork』では初のオリコン1位を獲得し、さらなる飛躍が期待されていた時期での死だったので、同じようなことを考える人も多いと思います。
一方で、岡田有希子の死後にアイドル文化は徐々に衰退していき、同級生の本田美奈子や南野陽子は芸能界で暗中模索する時期もありました。
そのため、岡田有希子が生きていたら芸能界でもっと活躍していたのではないかという想いと、むしろ苦戦を強いられたのではないかという想いが錯綜しますし、当然、現実的にどうなったかなど誰にも分かりようがありません。
ただ、私が言いたいことはこういった部類の話ではないのです。

岡田有希子の性格とあの時点で自ら命を絶ったという現実を考えると、岡田有希子が死なずに芸能生活を続けていたとしても、人より何倍も悩み苦しみながら生きることになったと思うのです。
その点を考えると、時期は違えど岡田有希子は現実と同じ結末で人生を終えた可能性も否定できません。
実社会をみても必要以上に悩んだり苦しんだりする人はおり、特に女性アイドルはそういった気質が強いと言われています。
実際に当サイトで扱う女性アイドルは、世間一般の自殺率より倍近い数値になることもデータ上判明しています。

上記で私は岡田有希子に生きていてほしかったと言及しましたが、結局それは他者の無責任な意見に過ぎず、岡田有希子の人生は岡田有希子もしくは佐藤佳代(岡田有希子の本名)にしか決めることはできなかった思い、岡田有希子についてはどう生きたかだけをひたすらに見つめていきたいと思う次第です。

私が好きなユッコ楽曲

私が好きな岡田有希子の曲は、

くちびるNetwork

です。
私がどのタイミングで岡田有希子のファンになったのかは今さら思い出せないのですが、曲を聴きなおすと初期の頃より後期の頃のほうが好きな傾向にあり、岡田有希子最後のシングルとなったこの曲が1番好きな曲となっています。
作詞:松田聖子、作曲:坂本龍一というところも、今になって振り返ると、とても感慨深いものがあります。

それに今になって改めて聴くと、『哀しい予感』とそのB面曲『恋人たちのカレンダー』がめちゃくちゃいい歌だなと実感します。
このレコードで岡田有希子はアイドルだけでなく一歌手としても相当評価が上がったように感じ、それだけに18歳で亡くなってしまったことが残念でなりません。

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